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現役中学英語教師兼なんちゃって講演家⭐️タラちゃんせんせーの学級通信\(⁎⁍̴̆Ɛ⁍̴̆⁎)!(英語✖︎心理学✖︎学級経営)

初めまして!現役中学校教師のタラオことタラちゃん先生です!4年ほど前に私が行った公開授業研をキッカケに、いつの間にか色んな都道府県にて実践発表や講演をさせていただく様になってきた今日この頃。講演を行っている中で一つ課題として感じ始めたことがこのブログを始めてみようと思ったキッカケです! 私がブログで書いていきたいと思っていることは 英語✖︎心理学&脳科学✖︎学級経営✖︎生きる力UP術✖︎生徒との笑えるエピソード! 学校の先生はもちろん、どんなジャンルのお仕事(学生さんも!)の人にも!

じいちゃんが、自殺した。《タラちゃんせんせーの学級通信》

 

 

自分の中で、大分整理がついたので、、、

 先生のしたある経験と、その時実際に考えたことを、みんなに伝えようと思います。

 

 決して気持ち良くできる話ではないし、「これっ!」ていう目的があるわけじゃないんだけど、でも先生にとってとっても大事な君達に、伝えておきたいと思ったので、伝えます。

長文だし、明るい内容でもない。今読む気がしない人、それでもこの通信はどこかに取っておいて、いつか準備ができた時には読んでおいてほしいな。

 

2020年6月10日(月)。
突然、遠方で暮らす祖父が亡くなりました。

死因は、「自殺」でした。

 

これは心理学を勉強していた私が様々な状況を総合的にみて勝手に診断するものですが、

ほぼ間違いなく、じいちゃんは「うつ病」を、患っていたのだと思います。全く気づくことができませんでした。

 

職員室で母からその知らせを受けた先生は、特に「自殺」というフレーズが出たあたりで決定的に、心が身体から浮き出て引き剥がされようとしている様な、奇妙な感覚に襲われました。

 

心が二つに分かれて、その片方がめい一杯混乱して発狂しながら暴れ回り、もう片方が落ち着いて今するべきことを算出して身体を動かしている。そんな感じだった。

 

それで何とか残りの業務をこなし、明日以降の引き継ぎを済ませ、家路についた。

 

その夜、葬式に行くための準備や飛行機のチケットを取ったあと、私はたまたま目についた募金を呼びかけるネット上の広告を見て、そこに募金をしました。

 

それは国連の「難民救助」の為の基金でした。

 

病気も置かれる環境も多くの場合、選ぶことはできませんが、
置かれたその環境は変えることができるかもしれない。

 

遠くに住む祖父の変化に私は気づいてあげられませんでしたが、気づいていたなら、それが実らなかったとしても、全力で運命を変える努力をしたはずです。

 

現地、国連の方々もきっと同じ想いなのかな?なんてことをふっと思い、本当にささやかですが今回少しだけ寄付をさせていただきました。半分、いやもっと、自分の為です。

 

こたえるなあ。

 

 

チクショウ。。。じいちゃん。。。

 

 あまりにも突然だったので時間割の変更も迷惑をかけそうで心苦しく、次の日は午前中だけ授業をしてから出発することにした。

 

 

 それはもう、まともな授業なんてとてもじゃないなというフラフラの精神状態でしたが、ここでもふっと、「じいちゃんが観に来るかもしれない。」と思い直したので、前の日に思いっきり泣いておいて、その日は思い切り元気に授業しました。


 みんなの協力もあって、じいちゃんに見られていても恥ずかしくない、いい授業でした。ありがとう!

 まぁ、、、ツライ時期のそんな乗り切り方もある。レパートリーの一つとして、みんなも覚えておいて。

 

 でもさ、朝はその日授業で使うプリントをなぜかシュレッターし始めていたし、
その他にも、空港に行ったら前の日に取ったつもりの航空券が取れておらず、直前にその場で購入しなおしたのでなんと、倍額近い片道47000円也!。。。そして葬式の朝、持ってきたスーツを取り出してみたら黒じゃなくて紺色だった、、、笑

 

それなりに平常心で行動出来ていたつもりだったんだけど、ヤッパリ気が動転してたのかな(いや先生の場合それで通常運行?笑)?

 

・・・

 

 

 

こんな悲しい旅路は初めてでした。

 

 振り返ればじいちゃんとはずっと距離が離れていた分、たまに会えるときはお互い、思い切り優しい気持ちで、特に2人がすごく歳をとって、次が無いかもしれないことを意識し始めてからは、真心込めてっていうのかな? 常にそうやって接してきました。

 

 

 だから先生はじいちゃんとの間には「あまり」、大きな悔いは残さないで済みました。

 

 けれどその分、振り返れば、生まれてこの方、嫌な思い出の一つもない、そんな人との、永遠の、別れなのでした。

 

 そんなことを考えていたら、行きの飛行機の中でボロボロボロボロ涙がこぼれた。コロナのおかげで、席が間引かれていたことに感謝しました。

 

 

 葬式は、ツラさや悲しみ、なにより「どうして?」の気持ちが頭の中で圧倒的に勝っていたけれど、それまでの87年間の頑張りと、自分までバトンをキッチリ繋いでくれた大恩人への感謝を込めて、 


「お疲れさま!いってらっしゃい!」の気持ちを込めて、笑顔で送り出そうと努めました。

 でもいざ顔を見た時は、泣いちゃったけどね。


 先生の親父が、「ありがとう」と、棺の中のじいちゃんの頭を撫でながら言っていた時も結構、泣いちゃった。

 

 いいですか。ここからは真剣に聞いて頭に残しておいてほしいんだ。

 

うつ病は「病気」です。》

 

 風邪は気合いで治せても、例えばガンはどう??病気はきちんと治療を受けなきゃ治すことはできないのです。

 

 でも、目に見える部分や、レントゲンに写る内臓の病気と違って、心の病気にはまだまだ社会全体の知識や理解が足りません。
 

 無知故に、その症状の進行に周りも、本人すらもなかなか気付けないのです。(もの凄くお腹が痛い時は病院に行くけど、もの凄く心が痛い時は病院に行くのをためらってしまう人は多いと思います。)

 

 そして無知であるが故に、

 

「なぜこんなことになったのだ?!」

「何か周りが酷いことでもしていたんじゃないか?!」

 

などと、当人や周りにいた人を不必要に責めてしまいたくなるのです。


先生の親戚の中にも、残念ながらそんな姿勢の人がいました。じいちゃんと同居していた叔母夫婦は、とても傷ついたと思います。

 

先日の通信でも書きましたが、「心の痛み」というものを決して甘く見ないでください。
心の痛みでも人は大きな傷を受け、血を流し、死に至ることだって一杯ある。

 

 自分の変化、大切な人の変化、鈍感にならない様にしよう。これがみんなにこの話を伝えている1番の理由です。

 

 そしてできれば、まだ傷が小さいウチに、その症状に気付けるようになってほしい。ガンのリスクを上げる生活習慣病を防ぐ為に食事や運動に気をつけて過ごすのと同じ様に、

 

 心の病を予防できる術を知り、少しずつでも身につけていってほしいと、心から思う。先生はこの先、君たちの中からそんな悲しいニュースを聴きたくはないから。

 

 もう少し、続けます。残された人たちの気持ちについてです。
 

 調べてみると高齢者の自殺って、本当に多いんだね。未成年のの自殺の何倍も、、、

 

 自殺なんて、もし、残される大事な人たちの事をちょっとでも考える心の余裕があったら、絶対にできない所業だけど、ヤッパリそこはそういう「病気」なんだよなと思う。ものスゴい引力で命を引っ張るんだ。

 

 ガンで亡くなった人を責める人はあまりいないでしょう。だから先生は、心の病気で亡くなったじいちゃんを責める気持ちにはなりませんでした。
 

 でも、1番可哀想なのは残された人たち。

 

 「早期に発見すれば救えた命だったかもしれない」という後悔は、多かれ少なかれ一生つきまとうかもしれない。「あの時あんなこと言わなければ。」「あの時にもっとああしてあげられていたら。。。」

 

 先生もね、無くなるほんの数日前に、ジイちゃんとバアちゃんに品薄だったマスクと、何年か前に敬老の日にあげようと思って買ったまま、タイミングを逃して渡せずにいた「夫婦箸」を送っていたんだ。

 

 ばあちゃんから「ありがとう」の電話をもらったあの時、なんでじいちゃんに電話を代わって貰わなかった??声を聴きさえしていれば、俺なら気付けたかもしれない。すぐに病院に行くように説得して、何かが変えられていたかもしれない。。。考えるたびに、心がザワつくのです。

 

 近くに暮らしていた人は尚更でしょう。
 
 そんなツラく深すぎる後悔の念を大切な人たちに一杯一杯抱かせてしまうことになる。ヤッパリ、あまりにも切ないよね、自ら命を断つなんて行為は。これも、よく、覚えておくように。

 

 じいちゃんは先生が贈ったその箸を喜んで、2日間ほど使ってくれていたそうです。自殺する直前もバアちゃんと二人分の昼ごはんを作り、その夫婦箸を置いてから、そのまま、、、だから、その時点で本当は死ぬ気なんてなかったはずなんだけど、そこでフッと、病魔がじいちゃんを襲ったのだろうと思います。

 

 俺はツルと亀が刻まれたその夫婦箸に「長生きしてほしい」という願いを込めたつもりだったんだけどな、、、届かなかった。残されたばあちゃんの心を想うと、張り裂けそうな気持ちになる。

 

 殴り書きの遺書から読み取れた爺ちゃんの死の真相の中で唯一、身内ににとって救いだったのは、思い悩んだ根っこの原因が、バアちゃんがもう長くは生きられないだろうことを感じ、バアちゃんのいない世界で1人生きていくことを強く悲観してのものだったのだろうということでした(もちろん自分の身体がシンドイこともあったけど)。その優しい気持ちに、病魔が付け込んだ。
 


 じいちゃんはもともと、潔さを好む昭和初期の男でしたが、しかし嫁さんを愛し過ぎて病気になって死んじゃうなんてさ、、、闘病で何年も苦しみに耐えてるばあちゃんがしてしまうならともかく、、、男は肝心な時に弱っちいね。

 

 今頃天国で「あー!やっちまったー!!何してんだ俺のアホー!!」って、滅茶苦茶後悔してるんだろうと思うから、せめてバアちゃんばキッチリ守って、ちゃんと最期まで往生させてくれよと、じいちゃんに線香をあげながら俺は言ってやったよ。

 

ゴメンね、長くなりました。

 

 大事な人の死は、生きていけば誰にでも起こる出来事です。

 

 それは突然であることも多いし、そういう時、自分はそのことをどう感じ、どう考えたらいいのか分からない(あるいは分からなかった。)ということ、あると思うんだ。自分が感じている気持ちを言葉にして現すってことも結構、技術のいることだったりするしね。

 

 32歳の先生が、今回の経験を通して考えたことはみんなに当てはまる答えなんかじゃ決してないけれど、一つの実例として、頭のどこかにでも置いておいてほしい。

 

 そして良ければ、ボーッとする時間のある時に「自分ならどう考えるだろう?」ってことを頭の中で思考してみてほしい。
そうしておくときっといつか、役に立つから。

 

 いざ実際にその場面になってから真剣に考えようとしても、その他にしなきゃいけないこと、考えなきゃいけない雑多なことが一杯あって、何よりショックが大き過ぎて、向き合いたくても頭が真っ白になっちゃったりするからね。

 

 そしてこれをきっかけに。今よりちょっとだけでいいから、身近な人に優しく、真心込めて接してみようという気持ちを持って、それを実際の「行動」に移してくれたら、先生はとても嬉しい。

 

 あーもう、あのメチャメチャ優しい声で「和也〜」って、呼んでもらえないんだなぁ、、、

なんて、ふさぎ込む瞬間もまだあります。

 

 でも、もう十分悲しんだ!

 

 自分もいつか変わらず死んでいくんだってことを、忘れちゃダメだよね。

 

 次に会う時に恥ずかしくないように、こっからは俺ちゃんと頑張るからさ。みててくれよ!!!

 

そんな想いで、今は毎日を一生懸命、過ごしてる。

 

いいかい?

①「心の痛み」を決して甘くみないこと。

 

②それらが命を奪うくらい大きくなってしまう前に、予防する術を知り身につけること。

 

③そして大きくなってしまったら、必ず病院に行くこと。

 

④自分の命と、大事な人を「普段から」大切にしようと「努力」をすること。

 

⑤それでも必ず1人1人に必ず起こる「死別」という瞬間に向けて心の備えをしておくこと。

先生が一番伝えたいポイントはこの5つかな。

 

 テレビで見聞きする誰かの死は遠いものです。
 でも身近な人である先生の大切な人の死。それは少しだけ距離が近く感じると思う。


 どうか少しでも「自分事」に近づけて考える機会にしてほしい。そうしてもらえたら、先生の悲しい経験も、少しだけ報われるように思う。


 ここまで長々と、読んでくれて本当にありがとう。それでは、また^ ^

 

 P.S. なんか最初一人でいた間は、色々考えてしまって落ち込んだ気持ちが強かったんだけど、親族で集まって色んな思い出話とかをしていると、自然とポジティブな気持ちになってきた。なんか、エネルギーを分け合うというより、揃うことでエネルギーを新しく作り出して共有できる様な、不思議な感覚だったな。

 そして1人になると、また考え込むという、、、

 

 深く考えて整理したい時は1人。
 あまり落ち込み過ぎないようにしたい時は誰か信頼できる人に側にいてくだらない話をしてもらうのが1番なのかなと思ったかな^ ^

 そして先生には君たちがいた。みんなのいつもと変わらない元気さとエネルギーに、どれだけ救われたかわからない。本当に感謝してるんだよ^ - ^ 君たちは、ただそこに在るだけで、こんなにも素晴らしい。 ありがとう。

 

P.S.その2
母方の祖母が亡くなった時の話。ばあちゃんは早くから痴呆を患って、最後は老衰で亡くなったんですが、葬式の時もその後も、不思議と、とても清々しい想いになったのを思い出します。
あの清々しさの正体はなんだったのか。それは多分、天寿を「全う」するということ。

《惜しむ気持ち》は変わりないけれど、《悔いがない》ということ。少なくとも故人を大切に想う残された人たちに対して、最も思いやりのある最期であることに間違いはない。ばあちゃんの死からも、先生は大きなことを学んだように思う。

 

 

きっとこの通信は、子どもたちには出せないだろう。

 

でもせめて、ここには書きとめておく。

 

こんな無駄に長い文章、誰も読みやしないのかもしれないけど。「1人でもいい」

誰かに、届いてほしい。